〜OTHERS REVIEW〜

 


 

 

 

 

鈴木みのるAND葛西純

人によって色々な意見はあるだろうが、俺が思
うプロレスの魅力を一言でいえば、それは「リ
アリティ」だということになる。
当たり前のことだが、「リアリティ」と「リア
ル」というのは、もう完全に別物だ。例えば映
画のカーアクションシーンを考えてもらえばい
いが、撮影するアングルとしては、カメラを車
のボディに取り付けるとしても、その、取り付
ける位置が低ければ低いほどカメラはいわゆる
「地を這う」感覚になり、スピード感やスリル
が強調される。だが、実際には、車に乗ってい
るときにそんな風に「地を這う」ような視点を
乗車している人間が得られるか?といえば、絶
対に選られはしない。つまり、「地を這う」よ
うな視点にカメラを据えるということは、その
時点で「リアル」さからは大きくかけ離れるわ
けなのだが、しかしそんな風に「リアル」から
思いきりかけ離れることで得られるものが、実
は最大級の「リアリティ」なのである。
このことからも分かるように、「リアル」なも
のが持っている「なにか」を、「リアル」なも
の以上に第三者に「伝える」ために、敢えて真
実を曲げて「フィクション」を加えることこそ
が「リアリティ」の追求なのだ、と俺は思う。
そういう目で見れば、ジャッキー・チェンのカ
ンフーなども、手の平を反転させるだけで風切
り音が鳴るところなど、全然「リアル」じゃな
いにもかかわらず、観客の感覚からすれば、そ
んな風に手の平を返すだけで風切り音が鳴った
ほうが、鳴らないよりもはるかに凄みが増して
ジャッキーが強そうに見えるのであり、これが
俺の考える「リアリティ」なのだ。
極真空手や総格(総合格闘技)の試合は、とて
も「リアル」だし、嘘がない。だが、だからこ
そ、総格や極真の中にある「なにか」は、観客
には完全には伝わりにくい。その、完全には伝
わりにくい、総格や極真の持つ「なにか」を、
真実を曲げ、虚構を織り込むことで、より観客
に伝わりやすくした(より「リアリティ」を追
求した)ものがプロレスなのだということはで
きないだろうか?
まぁ「リアリティ」の追求といったところで、
綺麗にいえば虚構を織り込むとはいうものの、
汚くいえば皆さんご存知の八百長ということな
のであり、だからこそ俺はずっと以前から、プ
ロレスはスポーツにカテゴライズされるべきも
ではなく、サーカスにこそ属すべきものなのだ
という信条を持っている。
誰でも知っている通り、サーカスはショウだ。
だが、そのショウを成立させるためには、裏で
は信じられないほどの修練と努力が必要なので
あり、その図式はそのままプロレスにも当て嵌
めることが出来ると思う。
サーカスもプロレスも、だから「リアリティ」
の追求には常に余念がないのだが、話をプロレ
スに限定すれば、「リアリティ」の追及は、実
は両刃の剣としての危険も併せ持っているとも
いえる。それは、プロレスにとって必要不可欠
な「リアリティ」の追求という行為が、その行
為の持つフィクション性を際限なく敷衍させか
ねないという危険性だ。これを分かり易くいえ
ば、技を受けて苦悶している選手を観ても、ど
うせあんな風に痛がっているのもヤラセで、本
当は全然痛くもなんともないんだろう?と観客
が思ってしまうという危険性だ。観客にそんな
風に思われてしまったのでは、プロレスはその
存在意義(レーゾンデートル)を完全に否定さ
れることになってしまう。
では「リアリティ」を追求するために虚構を織
り込みながらも、プロレスの存在意義を成立さ
せるためにはどうすればいいのか?‥
というか、その質問は、「リアリティ」の追求
と存在意義の成立を両立させるためには、一体
なにが必要なのか?と言い換えることもできる
わけなのだが、俺はそれこそが「説得力」なの
だと思う。
観客の目に、どうせ痛くないんじゃないのか?
と映るような技は、「説得力」のない技だとい
うことになる。逆に、それを見た観客が、いく
らなんでも、こんなことをされたんじゃ、相当
痛いに違いない、と思うような技には、「説得
力」があるということができると思う。
今俺は話を簡単にするために技についてあれこ
れ話しているのだが、実際には技そのものの持
つ説得力などしょせんたかが知れているという
こともできる。
例えば、同じ技を使っても、痛そうに見えると
きと全然痛そうに見えないときがある。力道山
以降、空手チョップは誰でも使うオーソドック
スな技になっているが、NOAHの小橋健太が使う
チョップは、これはもう、実際に見た人にしか
分からないのが本当にもどかしいのだが、恐ろ
しいまでの「説得力」がある。
こうして考えてみると、プロレスに必要な「説
得力」というのは、煎じ詰めていえば、技に宿
るのではなく、技を使うその選手に宿るのだと
いうことが出来る。この選手ならきっと本気で
技を相手にかけるに違いない、と観客に思わせ
られるかどうかが「説得力」の有無の分かれ目
になるということなのだ。
前置きが思いっきり長くなってしまったが、今
の日本マット界(プロレス界)で、最も「説得
力」がある、と俺が感じているのが、鈴木みの
ると、葛西純の両選手だ。
さっき書いたNOAHの小橋健太もそうだし、健介
オフィスの佐々木健介も、新日の中西学も、そ
れ以外にもナチュラルで強くて「説得力」のあ
る選手はたくさんいる。その中で敢えて鈴木み
のるを選ぶのは、彼が自他共に認める「マット
界で一番性格の悪い男」だからだ。
マイクアピールやインタビュウを観ているとと
てもよく分かるのだが、鈴木みのるは恐ろしく
弁が立つ男だ。研ぎ澄ませば言葉がどれだけと
んでもない凶器になるか、多分今のプロレス界
で一番よく分かっているのが鈴木みのるだろう
と思う。そしてさっきも書いたが、鈴木みのる
は、マット界で一番性格の悪い男と呼ばれてい
る。それは、対戦相手や契約団体に対して、た
だ単に歯に絹着せないだけでなく、その頭脳と
言語感覚を駆使して、臓腑を抉るような発言を
浴びせるからだ。
レスラー同士が「ぶっつぶしてやる!」「殺っ
てやる!」などと言葉をぶつけあっているが、
あんなもの、素人が見ても、どうせ本気でいっ
てないんだろう?ってなもんで、「説得力」が
ないこと夥しい。だが、鈴木みのるの発言は、
違う。どう考えても、それをいったら洒落にな
らんだろう、と、聞いている側が冷水をぶっか
けられたような気分になる毒舌や猛言を情け容
赦なく対戦相手や契約団体に叩きつけるのだ。
それも、普通の「売り言葉」ではなく、相手の
築き上げてきた虚構の「リアリティ」を根底か
らひっくり返すような「正論」を軸に毒舌を展
開するのだから性質(たち)が悪い。
世の中には暗黙の了解というものがある。いく
らそれが事実であっても、否、それが紛れもな
い事実だからこそそのことには触れないように
する、といった事例には世の中は事欠かない。
これはプロレス界でも同じだが、鈴木みのるは
そこを平気で攻撃する。事前の舌戦はもとより
試合中であっても、相手の得意技(その選手が
その技を出したら「とりあえずは」相手の選手
はその技を受けてダメージを負うことになって
いる‥という技のことだ)を受けてもヘラヘラ
笑い、会場内に聞こえるような大声で「そんな
技効かねぇよ!!」と毒づく。
こういう暗黙の了解を平気で破る存在を、社会
は決して容認しない。だが鈴木みのるは裏で手
を回して潰すにはプロレス界の中でスターであ
り過ぎる。そこで、鈴木みのると対立する団体
や選手は、リングの上で「合法的」に鈴木みの
るを潰しにくるのであり、これが鈴木みのるの
絡む試合にのっぴきならない緊張感を与えるこ
とになってくるのだ。こういう危険な試合のこ
とを、プロレス専門用語でセメントという。ガ
チガチに固い、という意味だ。
本当の意味でのセメントは、そうそう滅多に見
られるものではないが、鈴木みのるの試合には
常にこのセメントの匂いが漂うのであり、これ
が鈴木みのるの試合に強固な「説得力」を与え
ているのである。
さてもう一方の葛西純なのだが、彼はレスラー
の中では背が低く、体が小さい方だ。背が低く
体が小さいというのは、プロレス界の中では致
命的なハンディで、新日全日NOAHといった老舗
やメジャー団体はもちろんのこと、葛西純がそ
の主戦場とする大日本やアパッチプロレスにお
いても、体格で劣る選手は否応なしに格下とし
て扱われる。実際、葛西純もサル・ザ・マンと
いうリングネームだった頃は本当に影が薄い存
在で、タッグマッチなどで人気のある選手を光
らせるためにヤラレ役に回るレスラーを噛ませ
犬といったりするが、サル・ザ・マン=葛西純
はまさに当時の大日本の人気レスラーであるマ
ホン‥もとい、本間朋晃の影が薄いかませ犬に
過ぎなかった。
そんな葛西純が変わった(化けた)のは、いつ
頃からだっただろうか?サル・ザ・マンから葛
西純にリングネームを改名したこともあるが、
葛西純が化けるのに一番大きく関与したのは、
彼が自分の行動に自分の文法を持ったことだろ
うと思われる。化ける前の葛西純は、良くも悪
しくも普通のレスラーでしかなかった。例えば
対戦する相手に対しては、怒った顔をして「叩
き潰してやる」などといったりしていた。こう
いう反応はレスラーとしてはもう本当に普通で
あり、面白味に欠けることこの上ない。だが、
葛西純は、ある時から、そんな普通の「恐く見
えるレスラー」であろうとすることを完全に放
棄してしまった。対戦相手についてなにか質問
されても、バナナを頬張り、女の子がするよう
にサルのぬいぐるみを愛おしげに抱き、折れて
抜けた歯をむき出しにして「関係ねぇよ。俺っ
ちはヒラデルヒア出身だからよぉ」と、文字通
り吼える葛西純‥(念のために書いておくが、
彼の自己申告出身地はフィラデルフィアではな
い。あくまでもヒラデルヒアなのだ)。
普段の言動が変わるのと同時に、葛西純のリン
グ上でのファイトスタイルも大きく変わった。
壮絶な自爆型コミカルデスマッチスタイルを大
胆に試合に取り入れ始めたのだ。大体、ビキニ
トランクス一丁に裸足(!!)で画鋲デスマッ
チをする葛西純の、その姿の痛面白さというの
は、これはもう、筆舌に尽くしがたいものがあ
る。観客の心を掴むレスラーにはそのレスラー
に似合った「呼び名」がつく。アントニオ猪木
には「燃える闘魂」、前田日明には「格闘王」
といった具合だ。そして、葛西純につけられた
呼び名は、「狂猿(クレイジー・モンキー)」
だった。
葛西純の試合を言葉を文字で語ることには限界
がある。葛西純の持つ「説得力」は、彼の体そ
のものだ。酷い火傷や裂傷を負うと、人間の皮
膚は元には戻らず、ミミズ腫れのように醜く盛
り上がる。葛西純の上半身一面にちりばめられ
た、おびただしい数のそんな醜い傷跡は、彼が
繰り広げてきた「画鋲」や「有刺鉄線」や「蛍
光灯」や「ガラス」を使った数々のデスマッチ
の歴史そのものであり、文字通り、有無をいわ
せぬ「説得力」がある。そして、葛西純のエラ
いところは、そんな自分の戦歴を、なにがあろ
うと決して自慢しないところなのだ。普通のデ
スマッチファイター、例えば大仁田厚とかだっ
たら、さも自慢げに見せびらかすであろうそう
した傷跡について聞かれても、葛西純はうるさ
そうに「関係ねぇよ。どうせ俺っちはキ○ガイ
だからよぉ」とウソぶく。このシャイな部分に
コミカルさと狂気がブレンドされたときに、葛
西純はワン・アンド・オンリーなレスラーとし
てすさまじいばかりの「説得力」を観客に見せ
つけるのだ。
鈴木みのるの「マット界で一番性格の悪い男」
というキャッチフレーズも、葛西純の「狂猿(
クレイジー・モンキー)」という呼び名も、彼
ら二人がマット界のみならず、それを取り巻く
「世間」に対しても戦いを挑んだ結果手に入れ
た彼ら独自の行動原理だ。彼らの視線のその先
には、常に、いつも試合会場に足を運んでくれ
るお客さんのその向こうの、プロレスに対して
強固な偏見を持つ世間一般の大衆の姿が映って
いたに違いない。だからこそ彼らは世間一般が
プロレスに下す「八百長」のレッテルに充分対
抗しうるまでの「説得力」を手に入れることが
出来たのだと思うし、それこそがこれから先プ
ロレスが存続していくためには必要不可欠なも
のなのだろうと俺は思う。
なにやら小難しい結論になってしまったが、実
際問題、プロレスを観るのにそんな大層な理屈
は不要だ。特に鈴木みのると葛西純の試合なら
ば、予備知識もなにも持たずにとにかく観てみ
ることをお勧めしたい。すべてのエンターテイ
ンメントに共通する極上の楽しさを享楽できる
はずだ。

 


 

 

 

 

流山児★事務所/ダフネの嵐

日本全国の地方都市町村がそうなのかはよく知
らないが、少なくとも俺の住んでいる現磐田市
(旧磐田郡)は演劇の世間一般への浸透度合い
が極めて低い。
というか、浸透度合い云々以前に、一般の人達
が演劇に接する機会が極端に少ないのだから、
見ない→見なければ面白さが分からない→面白
さが分からないから全く浸透しない、という図
式がいとも簡単に成立してしまう。
特に致命的な問題だと思えるのが、小中高校の
情操教育の一環として年に一度ほど行なわれる
演劇鑑賞だ。
大体教育委員会とかPTAとかが子供に観せた
いと思うようなものに限って、どんな例外もな
く子供にとっては毛ほども面白かったためしは
なく、演劇も、何といったらいいか、その演劇
がどうこうというよりも、それを子供に観せよ
うとする教育委員会等の教条主義に満ちた浅計
の押し付けがとにかく耐えられないほど酷く、
俺などは学生時代、年に一度の演劇鑑賞がもう
どうしようもなく精神的に苦痛で苦痛で仕方が
なく、観劇している間中舞台を観ていられずに
目を閉じ耳を塞いでずっと俯いていたものだ。
そんな演劇鑑賞の経験を小中高校と毎年繰り返
し続ければ、まともな神経を持った人間なら十
中八九演劇が大嫌いになり、演劇という言葉自
体が鼻について我慢出来ないものになり、演劇
という単語に生理的な拒絶反応を示すようにな
ることはいうまでもないだろう‥というか、少
なくとも俺は間違いなくそうだった。
で、そこまで演劇を拒絶している人間をとこと
ん演劇好きに変えてしまうのだから、実は演劇
というものには底知れない面白さと魅力がぎっ
しりと詰まっているという事なのだが、演劇と
一口にいってもその種類は映画同様実に多岐に
渡って様々なものがあり、音楽に例えると分か
りやすいのだが、マツケンや北島三郎が新宿コ
マ劇場で打つショウなどは演歌になるのだろう
し、シェイクスピアはクラシックといった感じ
なのだろう。これらと同様に、音楽のロックに
相当する演劇というものもあり、それが俺は小
劇場演劇なのではないか?と思うのだ。小劇場
演劇に見られるアナーキズムや、既成の倫理や
価値基準に対する反骨精神、愛と憎しみ、希望
と絶望などは、骨の髄まで「成らず者」な俺を
心底驚嘆させ魅了するのに充分以上のものだっ
た。
流山児★事務所というのは演出家(演劇の場合
はなぜか監督、とはいわない)であり役者でも
ある流山児祥が率いる演劇集団で、俺のうろ覚
えの記憶によれば、確か日本全国の大学に学生
運動の嵐が吹き荒れていた60年代末からその
活動がスタートしているはずだから、かれこれ
もう40年選手になろうとするキャリアを持っ
ている。アナーキーでパンキーな精神を持った
劇団という意味では最右翼のひとつであり、同
様のポリシーを掲げた様々な劇団がその思想性
ゆえに短命に終わったり、川村毅の第三エロチ
カのようにアカデミックな分野にシフトしたり
していったのに対して、流山児★事務所はあく
までもエンターテインメントにこだわり続け、
40年弱という年月を経てもその方向性にブレ
がまったく見られない所がとてつもなく潔い。
前フリが思いきり長くなってしまったが、そん
な流山児★事務所の芝居「ダフネの嵐」をスカ
パー!で観た。
まるで60年代日活無国籍アクション映画の様
なテイストに満ち満ちたストーリーといい、随
所に挿入される歌謡ショウといい、一歩間違え
ば軟弱極まりないグダグダの舞台になってしま
いそうな要素がテンコ盛り状態の中で、しかし
流山児★事務所の芝居は、俺が初めてこの劇団
と出会った20年以上前とまるで変わらず、カ
ミソリのような鋭利な切れ味と飢えた野犬の様
なハングリーさを鮮やかに併せ持っていた。
そうして、それよりなによりも俺が涙が出るほ
ど嬉しかったのは、この「ダフネの嵐」が、と
ことん「芝居々々」してくれていた事だった。
昨今の小劇場演劇を観ていて心から不満に思う
のは、役者の芝居が思いっきりTV寄りになっ
ている事で、これはもう役者だけでなく演出家
も含めて関係者全員が「板の上の日常」と「素
の普通」をまるで取り違えて、または混同して
いるんじゃないか?と俺などは思ってしまうの
だが、俺も含めて、多分芝居を観に行く人達と
いうのはTVや映画では代替が不可能な、芝居
でしか味わえない世界(描写やしぐさ、台詞回
しetc)を求めて狭い芝居小屋に足を運ぶの
であり、そういう意味では、板の上の役者はT
Vや映画とはまるで違った、板の上だからこそ
成立する演技を見(魅)せてくれないと困るの
だ。
「ダフネの嵐」には、この、板の上だけでしか
見ることの出来ない芝居も含めて、演劇でしか
味わえないsomethingがぎっしり詰ま
っていて、それがなによりも心地良かった。
特にラスト。イーグルスのホテル・カリフォル
ニアが流れるシーンなどは、もう芝居独特のケ
レン味が全開で、その妖しいカッコ良さはまさ
に絶品。観ていて久しぶりに鳥肌が立った。
今回の演出は、コント赤信号出身のラサール石
井だ。ラサール石井は「星屑の会」などが好き
なのだが、エンターテインメントというものが
よく分かっていて、心憎いほどツボを押さえた
本当にいい演出をすると思う。それが流山児祥
と手を組んだのだから、考えてみれば、面白く
ならないはずがない。
流山児祥は、もうずっとこのまま永久にとびき
り面白い小劇場演劇を造り続けるに違いない。
否、そうであって欲しい。
そんな、夕暮れ時の下北沢の空に溶けていって
しまいそうな儚く哀しい夢を見させてくれる所
が、俺が小劇場演劇を愛する本当の理由なのか
も知れない。

 


 

 

 

 

小林よしのりVS奥崎謙三

世間ではどうなのか知らないが、俺のアンテナ
では、小林よしのりは近年、明らかに失速して
いる。新ゴー宣がスタートし、戦争論を出した
頃は、確かに飛ぶ鳥落す勢いだったのに、今で
は‥、そして?なていたらくぶりだ。
そんな小林よしのりの栄枯盛衰ぶりを見ている
と、かつての幸福の科学を思い出すのは俺だけ
だろうか?‥そんな事はともかく、彼のリベラ
ルという言葉の影にしまい込んだ右翼思想につ
いて語るためには、やはりこれも左翼の代表選
手ともいえる故・奥崎謙三にご登場願うしかな
いな、と思い、両者を同時に俎上に上げる事に
した。
この両者の仕事ぶりをここで紹介していてはキ
リがない所があるし、それは俺の本意でもない
ので、この二人がどんな人なのか知らない人に
ついては、まず二人をググって調べてからこれ
を読んでほしいとしかいいようがないが、それ
でもかまわずにどんどん話を進めれば、この二
人の共通点は強烈過ぎる程の自己演出の姑息さ
だろうと思う。
なにが姑息かといって、小林よしのりは明らか
に右翼であるにも関わらずリベラルという名の
仮面を恥ずかしげもなく被っている所が最大の
欺瞞だと思うし、奥崎謙三も同様の欺瞞として
明らかに左翼であるにも関わらず神を御旗に掲
げている所が挙げられると思う。
こういう姑息さがこの二人の精神のいびつな幼
児性を体現しているのは自明の理なのだが、そ
ういう部分を見抜けずに、ただただ二人の、綺
麗な言葉でいえばエネルギー、本当の事をいえ
ば強烈な毒気にあてられ、この二人の所業に感
動を覚えるような免疫力のない若年層の男女が
いるという現実には、他人事ながら思わず頭を
抱えてしまう。
俺がかつてゴー宣を買ったり、ゆきゆきて神軍
を観たりしたのは、こうした二人の自己顕示ぶ
りを、いわゆるひとつの「芸」として捉え、そ
れを面白いと思ったからなのだが、こうした芸
はファーストインプレッションが強過ぎるため
にあまり継続して味わっていると彼らの自己演
出が鼻について臭くてたまらなくなってくる訳
で、そういう意味では、俺はこの二人のシンパ
の精神構造が理解出来ない、というか、理解出
来ないこともないが、少なくともそういう手合
いとは友達にはなりたくないな、と思う。
不思議なことに、小林よしのり本人も奥崎謙三
本人も、俺から見ると、とっても面白いユーモ
ラスな面も持っている人達だという事が出来る
のだが、そんな彼ら二人のシンパはというと、
ユーモアや笑いが全く通じないガチガチの極右
や極左といったイメージが強い。
確かにそんな風に笑いを失うほど視野が狭窄す
るということが、とりもなおさずマインドコン
トロールされているという事なのだろうが、他
人様はともかく、俺がこの二人にマインドコン
トロールされなかったのは、ひとえにこの二人
の、自分と対立する人間への攻撃のし方に着目
したからで、賛同者や第三者に対してどれだけ
立派な態度をとる人間でも、その本質を見たか
ったら対立する人間への攻撃のし方を見て、そ
の攻撃の持つ品位のレベルを確認すればいい、
というのは、俺の持論でもあるのだが、そうい
う視点でこの二人の行動を見ると、奥崎謙三の
場合は直接的な暴力という手段に平気で訴える
し、小林よしのりの場合は、陰湿に嘲笑し侮蔑
するという手段が見えてくると思う。
どちらの手段も下劣さではどっちもどっちだし
そういう手段をとる事自体、そして、そういう
手段をとっているにも関わらずそんな自分を美
化し正当化する事も含めて俺はこの二人につい
てはその芸を楽しむ以外には得るものは何もな
いと判断したのだが、そんな二人を偶像化せざ
るをえない部分も人間の持つ弱さとして紛れも
なく存在する訳で、そういう(多分)自覚した
くないがゆえに無意識の内に目を背けてしまっ
ている人間の持つある種の弱さがヒトラーや小
泉純一郎を台頭させたのだろうな、とも思う。
平和ボケした人間は、小林よしのりや奥崎謙三
のような稚拙なアジテーターにすらコロっと影
響されてしまうものなのだろうと思うし、俺の
敬愛する作家の筒井康隆がかつて書いたように
話せば分かるというのは真っ赤な嘘であり、相
手が悪人だった場合は話せば話すほど危険だと
いう事実を、この二人と、この二人に感化され
る人達を見る事で改めて再認識させられた俺な
のだ。
ここでわざわざ言を大にするのも馬鹿々々しい
のだが、手段は目的と同等の価値を持って当た
り前なのであり、どんな事があろうと、目的に
よって正当化される手段というのは、危険な紛
い物に他ならないのだと思う。

 


 

 

 

 

月館の殺人/佐々木倫子・綾辻行人

佐々木倫子といえば、「動物のお医者さん」等
でコメディタッチの作品を描く漫画家といった
イメージがあり、一方の綾辻行人は「霧越邸殺
人事件」等に代表される日本ミステリ界新本格
派の頂点のひとつといったイメージがある。
この2人のコラボレーションというのは、だか
ら一見するととんでもなくミスマッチに思えて
しまうが、実は佐々木倫子はその作品「おたん
こナース」の中で医療における生と死といった
重厚なテーマにもきめ細かく真摯に取り組んで
いるし、一方の綾辻行人の方も「鳴風荘事件」
に見られるようにライトでコミカルなタッチの
語り口も持っている。
佐々木倫子の重厚さと綾辻行人のコミカル&ラ
イトは、共にお互いにとっての「奥の手」だと
いえるだろうが、ここにこの2人の唯一の接点
を見出す事が出来るし、事実、この漫画「月館
の殺人」では、その「奥の手」同士が見事に合
体して、素晴らしい融合を見せてくれていると
思う。
いくらライト&コミカルといっても、綾辻行人
が原作を担当する以上、通常の漫画では到底達
しえないミステリになるし、いくら重厚さも描
けるといっても佐々木倫子が描く以上、登場人
物達はユーモラスでとぼけた感じになる。
そういった意味では、漫画「月館の殺人」は、
佐々木倫子と綾辻行人がお互いの「奥の手」で
がぷり四つに組み合いながらも、お互いの本領
を過不足なく発揮もしていて、読んでいて実に
美味しい作品に仕上がっていると思う。
それにしても、これを読んで痛感させられるの
は、漫画の持つ表現力の果てしないパワーだ。
「鳴風荘事件」に登場するようなキャラクター
は確かにコミカルでライトだが、それが佐々木
倫子のペンにかかる事で格段にダイレクト感が
増すし、「幻夜」(客車)の車両内の重厚な雰
囲気も、絵に描いて見せる事でより鮮やかに読
者の印象に残る事になると思う。
そんな事をあれやこれやと考えていると、この
漫画の成功の要因は、ひとえに佐々木倫子が自
分の持ち味を出せるようなお膳立てが整ってい
たからだという事が出来るし、そんな風に、逆
の言い方をすれば、綾辻行人が裏方に徹したと
いう事が、それだけ綾辻行人の中に漫画に対す
理解と造詣とリスペクトがあったからだという
事が出来るとも思う。
とまれ、この水と油のコラボレートは大成功を
収めたと思うし、漫画「月館の殺人」は、日本
の推理漫画の歴史の中にいつまでも燦然と輝く
名作だといえるだろう。
題材がミステリなだけにネタバレ厳禁という事
で内容に触れられないのが痛し痒しなのだが、
まぁそれも仕方がない。
上下刊に分かれた表紙のイラストが面白い。
上刊はヒロイン空海(そらみ)がなんだか現代
版雪女みたいにシリアスに描かれているが、下
刊は同じ空海がしっかり佐々木倫子のキャラク
ターになりきっている。
これは、最初は手探り状態だったものが、連載
が進むにつれて佐々木倫子が「ノって」きた、
という事だろうか?などと考えて、一人でニヤ
ニヤ笑って楽しんだりもしてしまった。

 

 

エロイカより愛をこめて/青池保子

書店というのは実に現金でドライな面があって
売れる本やマンガならどんどん平積みにして売
るが、この場合、なにをもってして「売れる」
と判断するのかがその書店の良悪の分岐点だと
思う。
悪い書店の代表例としては、時流に乗っていた
り、今人気がある、という事だけを判断材料に
する場合があるが、実は大きな人気のブームを
はるか昔に一山越してしまっていても、今もま
だ十二分に面白い本やマンガというのはたくさ
んあって、青池保子のエロイカより愛をこめて
は、まさにそんな、ブームは越えたけれど、今
もなお底知れない面白さを持ったマンガなのだ
と思う。
俺が散歩がてらに立ち寄る書店は田舎には珍し
い「良い書店」で、未だに青池保子のエロイカ
の新刊が出ると、しっかり書棚に背表紙ではな
く、表紙を見せて並べてくれる。
青池保子らしく(?)途中中断も含めながらも
連綿と続くエロイカの物語は、最新刊が33巻
だ。
骨の髄までミーハー的英国貴族主義に浸ってい
るホモの大泥棒エロイカと、心ならずもそんな
エロイカと関わらざるを得ない状況に巻き込ま
れるNATO情報部の強面の少佐鉄のクラウスのド
ラマは、少女漫画の持つ表現の可能性を雄弁に
語る素晴らしいエンターテインメントドラマと
して楽しむことが出来る。
エロイカの周りで起きる不条理なナンセンス・
ギャグの世界と、少佐の周りで起きる骨太なス
パイ・スリラーの世界の融和が生み出す奇想天
外なドラマは読者の予断を全く許さないものが
あるが、それより何より、俺が一番このマンガ
が好きなのは、登場人物のキャラクターのいび
つな歪みぶりだ。
昨今巷では「チョイ悪(わる)オヤジ」がブー
ムなのだそうだが、その伝でいけば、このエロ
イカに登場する男達の、なんと「悪(わる)」
な事か!?
根性のねじ曲がった男達が企てる悪意に満ちた
姦計が複雑に錯綜し収まるべき所に収まるはず
のドラマが方向性を失って迷走し始める時、青
池保子のペンは冴えわたり、読者はその荒唐無
稽かつ奇想天外なドラマに心底瞠目させられる
ことになる。
悪意に満ちた悪(わる)なオジサン達が魅せる
バイタリティ(元気ぶり)には、読んでいる俺
も、いつも山ほど元気を貰ってしまう。
クソジジィ(不良老人)を目指す俺にとっては
青池保子のエロイカより愛をこめては、極上の
教科書であると同時に、バイブルだともいえる
だろう。

 

 

志村けん

志村けんが、世間一般にどんな評価を受けてい
るのかを、俺はよく知らないし、知ろう、とも
思わない。
俺が知っている志村けんの評価は、とにかくPTA
から目の敵にされる存在だという事と、子供と
老人と、あと、日本に来て間もない外国人に、
圧倒的な的な支持を受けている、という事くら
いだ。
あと、業界内での評価は、といえば、演技につ
いてのシビアさでは泣く子も黙るほど同業者に
恐れられている役者の柄本明が、(これは彼一
流の冗談ではなく)本気で、共演する時に一番
緊張する相手が、他ならぬ志村けんなのだそう
だ。
変なおじさんだとかアイ〜ンだとかいった、笑
わせることではなく「笑われること」を生業と
する芸人として、志村けんは、恐るべき天才だ
という事が出来ると思う。
志村けんの背後にはドリフターズが、そして、
その後ろにはクレイジーキャッツや東八郎や由
利徹や伴淳三郎や榎本健一らが厳然と聳え立っ
ていたが、志村けんの前には、志村けんに続く
コメディアンは現在に至るまで遂に現れてはい
ない。
そんな志村けん自体が、最早現役最前線の座か
ら半ば退く形で、人間国宝化されようとしてい
る。
笑いの天才である志村けんには、自分がそうい
立場にあるという事や、コメディアンの灯が日
本の芸能界から消え去ってしまうことが、もう
何十年も前からはっきりと目に見えて分かって
いたのに違いない。
かつてTVで放送されていた「志村けんのだいじ
ょうぶだぁ」という番組は、だから、単なるお
笑いのネタの消費番組なんかでは決してなく、
実はあれは20世紀の日本のコメディアンが生
み出し続けたお笑いの系譜と歴史を総括すると
いう、遠大にして深遠なテーマを持った超ド級
の傑作番組だったのだ。
…というような事を、スカパーで再放送される
志村けんの昔の番組を見る事で、ようやく気付
かされるという勘の鈍い俺なのだが、その志村
けん自身の総括に本気で取り組もうという人間
が一人も出て来ないのが、本当に歯痒くてなら
ない。
志村けんは凄い!とか
志村けんは面白い!または、笑える!とか
そんな事を百万回まくしたてた所で、それでは
志村けんの実像はおろか、その影の一端をも捕
える事は出来ないだろう。
少なくとも、俺の中では、志村けんは、あのチ
ャップリンさえも遥かに超越している。
もし、ジャズ界にマイルス・デイビスを遥かに
超える天才が現れるとしたら、丁度その人間の
存在が、お笑い芸人界における志村けんの存在
と、ようやく張り合えるのではないか?とも思
ったりする俺なのだ。
エノケンを愛することを公言して止まない筒井
康隆を、俺はちっとも羨ましいとは思わない。
なぜなら、俺には、志村けんがいるからだ。
志村けんをリアルタイムで追いかけ続けられた
という、この至福の境遇を、俺は一体、何に例
えたらいいのだろう?

 

 

バガボンド/井上雄彦

「強さ」を求める主人公が、様々な強敵と対峙
し、対決を繰り返す事で成長し、成長する事で
さらに強大な敵に立ち向かうことになる…とい
う「状況のエスカレート」が延々と繰り返され
る、いわゆる「漫画のストーリー」の王道の真
骨頂が、このバガボンドには溢れるばかりのパ
ワーで漲っていると思う。
だから、バガボンドは、ある意味定番といえば
定番な内容なのだが、それが他の異口同音の定
番作品の中に埋もれてしまわない理由は、ふた
つあると思う。
ひとつは主人公が宮本武蔵である事。
一般的に武蔵といえば寡黙で落ち着いた物腰の
武士(もののふ)として知られているが、これ
を破天荒な暴れん坊キャラに当て嵌めたところ
に、今までにない斬新な武蔵像が誕生すること
になり、読んでいて心の中に新風が清々しく吹
き込んでくる感じが強い。
そして、普通こういった「成り上がり」ストー
リーでは、主人公は一人だけなのだが、このバ
ガボンドでは、もう一人のキャラクターが思い
きり異彩を放っている。それが、巌流島で武蔵
と対決することになる佐々木小次郎だ。
小次郎というと、一般的には頭が切れ過ぎてい
ささか気が短いエリートといったイメージがあ
るが、それを天真爛漫で純粋無垢な聾唖者とし
て描いている所に、武蔵そのものの描き方にも
通じる斬新な解釈があると思う。
バガボンドは、「成り上がり」ストーリーとい
った漫画の王道をしっかりと踏襲しつつも、そ
れと同時に作者による史実解釈のオリジナリテ
ィといった良質な歴史小説に通じる面白さをも
併せ持った奇作中の奇作、快作中の快作、傑作
中の傑作、という事が出来るだろう。
どんな人にでも太鼓判を押して勧められる面白
さもさる事ながら、作者の「この漫画は「読ん
で得する」漫画ではありません」という徹底し
た完全娯楽漫画宣言がなによりも気持ちいい。
バガボンドはまだ未完だ。
これからの展開に、本当に目が離せない。

 

 

ポカスカジャン

ポカスカジャンの結成10周年ライブをスカパー
で観た。
MUSIC REVIEWの松田聖子といい、このポカスカ
ジャンといい、結成ウン周年のコンサートをな
ぜか最近立て続けにスカパーで観て、ちゃっか
りと録画している俺なのである。
ポカスカジャンは劇団WAHAHA本舗を母体とする
ナンセンスコミックバンドだ。
はっきりいって、彼らの音楽に技術とかセンス
を求めるのは、お門違いもいい所だろう。
なにしろ、とにかく、下らない。しかも、緊張
感がなく、だらだらと間延びしている。
だがこれは、決してポカスカジャンに対する悪
口ではない。むしろ、そんなだらけきった下ら
ない宴会の一発芸のようなネタ(代物)を、強
引に勢いと乗りで展開しまくったあげくに、3
時間という長丁場のコンサートを成立させてし
まうというバイタリティそのものに、彼らの存
在意義や価値があるのだろうと思う。
到底爆笑にまでは至らないヌルいネタを延々と
披露され続け、かといってきっちり白けさせて
もらえる訳でもなく、見ているこちらも片頬を
だらしなく緩ませたままの3時間というのは、
これはもうなんとも形容のし難いトリップ感を
生む。
その上で、ラストにダメ押しで聴かせる迷バラ
ード「ハイどうも」の味わいは格別なものがあ
る。
彼らに音楽的な進歩を求めてはいけない。いつ
までも、どこまでも「音楽ヘタウマ」道を追求
することこそが彼らの真骨頂なのだから。

 

 

マッスル

色々と異論反論が出る事を承知の上で言い切っ
てしまえば、プロレスというのは、突き詰めて
いくと、最後には「キャラクターとキャラクタ
ーの勝負」という事になるのだろうと思う。
つまり、その試合の中で真に競われるのは、ど
ちらの選手のキャラクターが、より鮮やかに立
っていたか?という事で、だからプロレスの試
合評には、「試合には負けたが、勝負には勝っ
た」等という、一見意味不明の言葉が登場する
ことになる。
これは、負けた方の選手のキャラクターが、勝
った方の選手のキャラクターよりも鮮やかに立
っていた、という意味なのだ。
レスラーのキャラクターを立たせるための要素
として、その試合に至るまでの選手のドラマを
ストーリー化したものを、業界用語で「アング
ル」というのだが、そのアングルを、会場に設
置したオーロラビジョンのスクリーンを使って
映像で観客に見せる、という手法をアメリカの
プロレスが始めた。
この手法を一番効果的に取り入れている日本の
プロレス団体が、DDTという団体なのだが、
マッスルというのは、このDDTが提供するブ
ランドのひとつで、キャラクターを立たせるた
めにはどこまでの行為が許されるのか?という
のを探る「実験の場」でもある。
マッスルでは、オーロラビジョンで見せるスト
ーリーがエンターテインメント性に溢れている
ばかりでなく、キャラクターを立たせるために
は、例えば、リング上で拳銃で相手の選手を撃
ち、相手の選手が絶命したり、感動的なフィニ
ッシュシーンではスポットライトが当たり、B
GMが流れ、選手やレフェリーがスローモーシ
ョンで動いたり、選手がマイクを持って試合中
に胸の内を歌い上げたり…といった具合で、プ
ロレスが「八百長」の謗りを受けながらもかろ
うじて保っていた勝負という大義名分を思い切
りよくバッサリと斬り捨てる事で、例えば、プ
ロフィギュアスケートのような面白さをプロレ
スに持ち込むという斬新なスタイルを生み出し
ている。
マッスルがプロレスか否か?と問われれば、プ
ロレスだ、と答える事は極めて困難だが、プロ
レスという土壌から生まれたまったく新しいエ
ンターテインメントとして、マッスルは掛け値
のない面白さを持っているし、俺はそんなマッ
スルを最大限に評価し、どこまでも追い続けた
い。

 

 

 

 

 

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